鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 四

 昔語りの効能は大きかった。
 張り詰めていたものが和らぎ、ほっと息をつく。そこで初めて肩の辺りの重さに気がついた。
 よほど緊張していたに違いない。わたしは萎縮していた体を伸ばした。
 畳みに寝転んで天井を見上げる。
 物心ついてからずっと、こうして見上げ続けた天井だった。
 詳細を覚えているというものでもなかったが、十六年が過ぎた今も目に馴染む光景であることに違いはなかった。
 浮き出たしみさえ懐かしい。
 そのまま視線をずらし、苦笑がこみ上げた。
 起き上がり、ポスターを剥がす。
 壁にはしっかりと日焼け跡が残っていた。
 捨てるのは惜しいような気がして、丸めながら片付ける場所を探す。
 目についたのは押入れだった。どこか隅にでも入れておこうと襖を開ける。中の様子も記憶のままだった。
 いくつかの箱の上には、風呂敷包みが乗っている。
 あの日、畳んだ制服を包んだものだ。卒業証書の入った黒い筒が、少しはみ出していた。

 卒業式も、わたしはまだ謹慎期間中だった。
 だが友人たちが誘いにきた。
「俺、まだ謹慎が解けてないから」
「紛れ込んじまえばわかんねえよ」
「大丈夫、大丈夫」
 その通りだった。いや、教師たちは皆、気づかないフリをしてくれたのだろう。
 式の後、さすがに教室には顔を出せないと校舎の陰で友人たちを待っていた。
 お世話になった先生方に挨拶できないのは残念だったが、謹慎中のわたしが行ってもかえって迷惑でしかない。最後のホームルームの終了を、一人寒風の中で待つのは情けなくもあった。
 やがて友人たちがやってきた。彼らと一緒に帰途につく。
 校門に至る真際、担任に呼び止められた。
 友人たちはわたしを隠そうとしてくれた。
 けれど担任はまっすぐにわたしのほうを見て、言った。
『悪いが田宮、これを間抜けな仰木に届けてやってくれ』
 差し出されたのは黒い筒だった。
 田宮がそれを受け取り伝言は、と訪ねると、馬鹿者、と堅い声で答えがあった。
 それ以上何を言う間もなく、彼はわたしたちに背を向ける。
 お世話になりましたと敬礼するわたしたちに、いつものように振りかえりもせず去っていった。

 記憶に導かれ、わたしはその筒を手に取った。
 蓋を開け、中身を取り出した。
 筒を小脇に挟み、丸められたままの卒業証書をゆっくりと開く。開くのは初めてだった。
 証書から小さな紙片が落ちた。拾い上げ、紙片を小声で読み上げる。
「大学は残念だった。だが、この町でもできることはたくさんあるだろう。自棄にならず頑張ってほしい。二年したら、皆で呑みにでも行こう」
 末尾には先生の名があった。つんと痛む鼻の付根をわたしは指で押さえる。
 それまで部屋の隅で遊んでいた麦が押入れの前で俯くわたしの顔に鼻先を寄せた。
「大丈夫、なんでもないよ」
 方々に心配をかけておいて「なんでもない」というのは変だと自分でも思った。けれど笑うことはできなかった。

 わたしがこの家を出たのは卒業式の翌日未明だった。
 それは謹慎処分を受けた日から決めていたことだった。
 荷造りと今後に懸命だったわたしは、この小さな、けれど大切なメッセージにも気づかなかった。
 二年したら。
 それはわたしが成人したらという意味だ。一人前の大人になったら、という意味でもある。
 しかしわたしはそれには気づかぬまま、家を出てしまった。
 わたしが居なくなったことを、彼はどう思っただろう。
 それから数ヶ月が過ぎて、やっと腰を落ち着けることができる場所を見つけた。それが神主さんの元だ。
 近況報告にと出した手紙は僅かに数度。その度に返信はあった。そこにわたしの行動を責める言葉は、一行さえもなかった。
 けれど年々疎遠になり、今では形式的な年賀状を送るだけになっていた。
 友人たちとも数回電話をやり取りしただけだった。
 わたしは家業から逃げ出した。
 逃げるそのときに、家族も友人も恩師も思い出も、全てを置き去りにしてしまった。
 捨てた、と思われてもしかたのない振舞いだったと今はわかる。
 けれどあのころのわたしは限界にいた。
 この目の映す「異常」に気づいて十余年、それを隠し続けることにも疲れ果てていた。
 この世とあの世の間に立ち、そのどちらにも属しきれなかった。疎外感は日々募った。
 その疎外感が錯覚だということにさえ気づく余裕はなかった。
「バカだな」
 ため息と重なるように吹いた強い風が、ガラス戸を叩く。
 証書と紙片を筒に戻し、風呂敷包みの上に置く。襖を閉め、わたしは部屋と濡縁を隔てるガラス戸を開けた。

 濡縁に立ち西を見る。真正面に鐘が見えた。
 大きく傾いた日が、寺務所の向こうから鐘を照らしている。逆光に黒く浮ぶ鐘は、実際よりも大きく感じられる。
 眩しさに視線を北へとそらす。その先に桜があった。
 赤みを帯びた光の中、黒い枝を広げるその影は切り絵のようにも見えた。
 高さはなく、枝を大きく横に広げている。枝の支柱が落とす影は地面に美しい縞を描いていた。
 しばらくの間その光景に見惚れ、四、五分が過ぎて、帰ってきた目的をわたしはやっと思い出した。
 玄関へ回るのは面倒だ。履物を探してわたしは辺りを見回した。本堂への渡りの先、履き古したゴム製の草履に気がついた。
 靴下のまま下りて爪先立ちで大きく五歩。草履を足先に引っ掛けるとわたしは桜に向かう。

 いつものように桜の木肌に手を当て、声をかけたが応えはなかった。
 それどころかまるでコンクリートの壁に手を当てているような奇妙な感覚があった。
 まるで生きていないもの、生きていた形跡さえ感じさせないものの感触に近い。
 枯死しているのだろうかと不安を覚え、わたしは枝を見上げた。
 まだ固い蕾がある。
 ではこの木は生きている。わたしは小さく安堵の息をついた。
 なぜ答えてくれないのだろう、と考えたところで、墓地から盛大に呼ばれた。
 わたしは一旦思考を打ち切って、小走りにそちらに向かう。
 手を振って「お帰り」を繰りかえす皆さんに長の不在を詫びた。

 皆さんに麦を紹介し、麦に皆さんを紹介する。
 たくさんの鬼に囲まれて麦は戸惑う仕種を見せたが、わたしの様子から敵ではないと判断したようだった。
 皆さんの匂いをかぐように鼻を動かす。
「こりゃ可愛らしいきつねさんじゃの」
 その伸ばした首の下を松吉さんに掻かれ、麦は咽喉を鳴らす。そして気持ち良さそうに目を閉じた。
 これで麦が皆さんを追い回すことはないだろう。

 ひとしきり再会とはじめましての挨拶がすむと、亀さんがわたしに頭を下げた。
「わしらのせいでえらいことになってしまって」
 あの日の酒盛りをひどく気に病んでいるようだった。
 日暮れ時、影と光の境界が失われるその時間、彼らはまるで生きている人のように見える。
 全体に青みを伴なって見えるその姿が夕日の温かい色に覆われるからだろうか。
「もういいよ。気にしてない」
 その言葉に、熊さんが俯いた。
「わざとじゃったんじゃあ」
 何がと聞き返す前に、皆さんは口々に言った。その言葉を聞き分けられるのは、声という音ではないからかもしれない。
「和ちゃんに、ここに居てほしかったんじゃよ」
「余所の大学に行くと聞いて」
「外に行ったやつは、帰ってこん。それで」
「わしらは和ちゃんにこの寺を継いでほしかったんじゃぁ」
「ここでわしらと一緒に……」
 どうやらそれでわざと酒盛りに引っ張り出したらしかった。
「ほんの二升ぽちで」
「まさかそんなことで、謹慎になるとは」
 二升も呑んでいたのか。それは酔いつぶれてもあたりまえだ。
「ほんの少し勉強のじゃまをするだけのつもりじゃった」
 それで人生を左右されたのだから、怒ってもよいことなのかもしれない。
 そう思いながら、しかし、しょぼくれた様子の彼らを見てこみ上げたのは、怒りではなく笑いだった。
「和ちゃん?」
「いや、なんでもない。うん。本当に気にしてないから。こっちこそ、ごめん。家を出たのは」
 亀さんたちのせいではない。それはきっかけであって、理由は別にあった。
「少しここを離れて……外に出てみたかっただけだから」
「わしらに腹を立てて出て行ったと」
「違う、違う」
 わたしの考えナシの行動は、皆さんにも随分心配をかけたようだ。
 たしかに人の知らぬ存在を感知してしまうことへのストレスはあった。だが、それはここを離れたからといってどうなるものでもない。そんなことは、さすがにわたしでもわかっていた。
 それでもあえてここを離れることにしたのは、親しい人々に奇異の目で見られるようなことにはなりたくなかったからだ。
 行きずりの人に奇異の目で見られるのと、親しい人に距離を置かれるのはまったく違う。
 幼いころから親しくしてきた皆さんを無視することと、通りすがりの鬼の前を気づかぬ風を装って通り過ぎことも違う。
「違うから」
 そうか、と頷きながらも「すまんかった」と謝る皆さんに、わたしもまた頭を下げた。
「こっちこそ、心配かけてごめん」
「いやいや、和ちゃんが謝ることじゃない」
 互いに頭を下げあい、顔を上げて笑いあう。
 それからここ十六年、神主さんとの出会いからこれまでのことをかいつまんで話す。
 志野との仕事のことは言わなかった。
「そうか。そうか。元気でよかった。どこかで困っちゃおらんかと……」
「ごめん」
「わしらのことを話せる友達もできたんじゃな。よかった、よかった」
 先刻、志野が彼らに手を振ったことを言っているのだろう。松吉さんの言葉が胸にしみる。
「うん。お世話になってる人の、遠縁なんだ」
 うんうん、と頷きながら聞いてくれた亀さんは目元に浮ぶ涙を瞬きで払った。
「いや、しかし間に合うてよかったのー」
 人心地ついた様子で亀さんは言った。
「もう十日ももたんところじゃったから」
「肝が潰れるかと思うとったわ」
 亥兵衛さんの言葉に、潰れる肝なぞ持ちやせんくせに、と、変わらぬ鹿介さんの合いの手が入る。
「気持ちの問題じゃ」
「肝と気持ちじゃ大違いじゃ」
「まあまあまあ」
 仲裁に入るのは亀さんの役目だ。
「間に合うたんじゃから、それで良かろが」
「そうじゃぁ。和ちゃんが戻って来んかったら、あれはおしまいじゃったわ」
 何がおしまいなのか、何に間に合ったというのか。
「何の話?」
 尋ねられ答えようとした亥兵衛さんの口を鶴さんがふさいだ。
 なんじゃ、と手を振り払った亥兵衛さんは鹿介さんが指差す方を見て黙る。
 鹿介さんの指す先に、洋がいた。

「それはちょっと感心しないんだけど」
 洋はわたしが腰を掛けている門柱を見ている。わたしは慌てて立ち上がった。
『わしは別に構わん』
 熊さんが小声でぼやいた。
「ご家族の方が見たらどうするの。お墓は死んだ人のためのものだけじゃないでしょう」
 きつい言葉は熊さんに向けられたものではないのだが、気分を害したらしい熊さんは「フン」と鼻を鳴らしそっぽを向く。
 この二十年、命日に線香一本あげに来んモンが偉そうなことを言うな、この墓も、建てたんはわしじゃ、と口の中で熊さんはぼやいた。
 だが、その声は音ではないから丸聞こえだ。
 熊さんのご家族……いや、ご子孫は随分前にこの町から出て行った。
 わたしが子供のころは、年に一度、盆の前後にだけは帰ってきていたが、それも絶えて久しい。
「大川さんはなかなかいらっしゃらないけど、毎年きちんとしたご挨拶をくださってる。それなのにそんな扱いを受けてると知ったら、きっと悲しまれる」
 一旦そこで言葉をきった洋は大川さん――熊さん――の墓碑を見上げて続けた。
「それに帰って来られない人のために、いるんだと思ってる。俺はね」
 その通りだと思った。思いはあっても適わないことがある。
 仕事の都合もある、子供たちがいればその学業の都合もあるだろう。生きている人間はこの先もまだ生きてゆかなくてはならないのだから、どうしたってそちらの都合を優先せざるを得ない。
 墓参しなくとも、大川さんご家族は遠くで熊さんを含むご先祖さまを思っているに違いない。
 そうした人々の代わりに、祖父も父も勤めてきたのだ。
 そしていずれはこの弟が継ぐ。
 熊さんがそっぽを向いたまま鼻をすすった。
「ごめん」
 わたしは洋に頭を下げる。
 門柱に腰かけていたことの詫びだが、熊さんの気持ちでもあった。そして一部には彼を騙して出て行ったことや一度も帰らなかったこと、わたしが投げ出したものを肩代りさせることが含まれていただろう。

 日が落ちるとともに、みるみる春の気配は遠のいた。冬が夜とともに静かに空から下りてくる。
 冷たい風が吹いた。
 墓に供えられていた花がゆれ、花入れを揺らす。石と金属が触れ合い、固い音を立てた。
 洋は小さなため息をついた。
「……すぐに向こうに帰るんでしょう?」
 そういう言葉で、わたしの帰省が一時的なものに過ぎないことを洋は確認した。
 問われて自覚した。
 ここは懐かしい場所だ。心残りもたくさんある。しかし、今のわたしにとって「帰る」場所ではなかった。
 帰る、という言葉に想起されるのはここではない。
 朱塗りの社が浮んだ。
「うん」
 その答えにうなだれたのは洋ではなく、墓地の皆さんだった。
 音にはならぬため息が連なる。
 申し訳なさを覚えなくはなかったが、嘘をつくことも、気持ちを変えることもできなかった。
 洋は静かに、頷いた。
「そう。それならいい」
 何がいいというのか、尋ねようとしたのだが、洋に先を越された。
「呼びにきたんだ。食事、できたって」
「うん」
「でも、味はどうなのかな。なんだか凄いことになってるみたいだったけど」
 まさか、と思った。
「俺も料理はそんなに得意じゃないけど、彼、そういうレベルじゃないね」
 客分なら手伝わなくてもよい、と言っていたはずの志野が、どうしてか台所にたったらしい。
 喜ばしいことなのか、嘆かざるを得ないことなのか。
「……悪い」
「やっぱり、あれを食べるんだ?」
「食えないほど不味いわけじゃないから」
 洋は声を立てずに笑った。
「甘やかしすぎなんじゃない?」
 そうだろうか。
 返答を避け、わたしは献立を問う。
「予定では魚すきにするって言ってたけど」
 山間のこの町では、魚料理は最高のもてなしだった。
 流通が発達した今もその感覚は強く残っている。親父や祥子さんの気持ちが心にしみた。
「でも、あれはつみれ汁、じゃないかな……珍しいよね、白身のつみれ」
 魚を下ろすのに、志野が失敗したのだろう。
 彩花さん、あなたがいてなぜ志野に包丁を持たせましたか。
「まあ、でも二人はおしゃべりが弾んじゃってたらしいから、彼だけの責任でもないか。さ、行こう、兄さん」
 わたしは額を抑え、食事に向かった。
 洋にせかされつつ振りかえった先に、皆さんの影があった。
 後でもう一度来るから、と心でつぶやく。
 声で会話をしているのではないからそれだけで十分伝わることは知っていた。

 予想に反して夕食はそれほど不味くはなかった。
 見た目も普通につみれ汁だ。少々淡白にすぎる気はしなくもなかったけれど、だからこその旨みもあった。
 だがこれは志野の技量が上がったのではなく、祥子さんと彩花さんのおかげだろう。
 食べながら志野がふと箸を止めた。
「魚、食べるんですね」
 親父にそう言った。志野が丁寧語で喋れるとは思わなかった。
 今まさにつみれを口に入れようとしていた親父はつみれを置き、志野を見、言った。
「仏門で禁じられている食べ物の代表は、酒、五辛、肉」
 志野の目が、親父の前に置かれている徳利に向けられる。
「五辛とは、ねぎ、にら、らっきょう、しょうが、にんにく。山椒だという宗派もある。まあ、精力を増進するようなものを食うと、煩悩に悩まされやすくなるからやめておけ、ということだ」
 そう言って親父は薬味葱を汁に山のようにかけた。汁とともに口にかきこむ。
「悩まされんなら、むろん結構」
 志野が感心したように、へぇ、と声をあげた。
 洋は視線を逸らし、聞こえなかった素振りで彩花さんにお酌をしていた。
「酒もまた同じ。酔って己を見失うことがないならどうと言うこともない」
 豪快に煽る親父に、これまた志野がなるほどと頷く。
「不殺生戒はむやみに生き物を虐げるな、という意味だが、もともとそこに食ってはならんという意味はない。だが食すためであろうと自ら殺すことは認められておらん。また、己のために殺されるのを看過するということは殺生を容認することになり、これも禁じられている」
 そしてつみれを再度取り上げた。
「さてこの魚を水揚げした漁師はわたしに食わせるために殺したのか。答えは否だ。彼は己が生きるために、これを捉えた。この行いを無益と言えるのか。これも否」
 つみれは口中に消えた。
「食い物で妨げられる修行など、行のうちには入らん。そもそも食い物に、あれはダメこれはダメなどケチをつけるなぞ……」
 以下はわたしも聞かないことにした。
 その目の前に徳利が現われる。
 首を持つ手を辿る。洋だ。
 どうぞ、と言われ、お猪口を取った。
 今度はわたしがと徳利に手を伸ばす。洋は苦笑して断った。
「俺はもう五ヶ月待たないとね」
「ああ、そうか」
 言いながら、もう三ヶ月もすれば二十歳なのかと感慨深く思った。

 食事の片付けはわたしと洋の二人でやった。
 真新しいシステムキッチンが土間に馴染んでいるのが面白かった。昔と異なる景色を見ることに痛みを覚えないのは、「帰る場所」を意識したせいかもしれない。
「兄さん」
 皿を片付けながら洋がわたしを呼んだ。
 わたしに長居する気がないことを知った洋も、打って変わって穏やかになった。
 少し寂しさを覚えたが、誤解させたまま一緒に居られる短い時間をぎすぎすと過ごすよりはずっといい。
 洗い物の手を止めて洋を見る。少し躊躇った後、洋は言った。
「兄さんの部屋、欲しいんだけど」
 構わないよと答えかけ、わたしは押入れのポスターのことを思い出した。
 若いころの思い出は誰にとっても美しいが、思い出の品もそうであるとは言い切れない。
 少し考えてわたしは答えた。
「この五日のうちに片付けるよ。どこかまとめてしまって置ける場所はないかな」
 捨ててもよいものがほとんどだろう。この際、持って出るほうが良いものもある。けれど同じくらい、即座に決めかねるものもあるに違いない。
 言いながら、その場所は文庫か長屋門の二階だと思った。
 洋は首を少し傾げ思案した。答えはわたしが予測したものとは大きくことなった。
「数奇屋かな」
「数奇屋?」
 茶室としてはもう使われていないし、と洋は続けた。
「文庫は今、俺が使ってるから」
 なるほど文庫らしからぬあの窓は居室として使われているからか。
「その文庫にあったものは長屋門の二階に詰め込んだ。となると、兄さんのものを数奇屋に移して、俺のものを兄さんの部屋に運ぶ。それから文庫のものを戻すほうがいいと思う。文庫と長屋門は俺が片付けるよ」
 わたしは頷き、そして聞いた。
「わざわざわたしに聞かなくてもよかったのに」
 十六年不在にしてなお所有権を主張するほどわたしも図々しくはない。
「親父があの部屋は兄さんのだから、って。お前が勝手に使っていい部屋じゃない、とか……」
 何かがひっかかった。
 なんだろう。
 考える間もなく、洋の声がかぶさった。
「でも、兄さんがいいって言ってくれるなら、親父も折れるよね」
 たしかにあの部屋を父が使ったことはなかった。あの部屋はわたしが使う以前は、祖父の部屋だったはずだ。
 祖父が体を壊し他界し、その後しばらくしてわたしがあの部屋を使うようになった。
 わたしと祖父を繋ぐもの。それは、母だ。
 祖父が他界したその二年後に母は他界した。

 他界? 他界とはなんだ?

 寒気が背中を滑り落ちた。
 見たことがない。
 そう思った。
 わたしの目は「鬼」を映す。
 はじめて亀さんと話したのはまだ二つなったばかりの頃だった。
 祖父を亡くして間もなくだったろうか。
 麦を撫でたように、松吉さんが言った。
『こりゃ可愛らしい子じゃな』
 そのときの笑顔も声も覚えている。
 それなのに。
 それなのに、だ。
 手が震え、小さな泡の塊が飛び散った。
 皿を落とす前に、流しに置く。

 わたしは、祖父や母を見た覚えがない。

 亡くしてから一度もだ。葬儀の日にさえ、見なかった。
 白い装束を着せられ花に包まれている姿は覚えている。
 人形のようだと思った。そう、まるで生きていた気配さえなく……。

 何故だ。
 落ちた寒気は広がって足元からわたしを包み込んだ。
「……どうかした? やっぱりいやだった?」
「いや、違うよ。なんでもない」
 よかった、と笑う洋に笑顔を返しながら、どこか気持ちのざわめきを抑えられなかった。