難しい顔でめずらしい人がやってきた。
縁側で虫の音を楽しんでいたわたしに、遠慮がちにかけられる声。
「今、いいかな」
いいかな、とたどたどしく聞くその人は、とても表情が豊か。
聞いて。聞いて。教えて。
と、そのまなざしが語る。
口ほどにものを言うこの大きな目は、ときどき、反則だ、と思う。
この目のおかげで和さんは、ついついうっかり彼のワガママを寛恕しているようだから。
そう思うのだけれど、実はわたしもこの目に弱い。
「どうなさいましたの?」
わたしのことばにほっとしたように小さく微笑んで、彼は隣に座った。
せっかくですもの、とわたしはお茶とお菓子を用意する。
五つ年下の男の子。わが家のかわいい居候さん。
そう。
とても、かわいらしい、と思う。
「聞いた? さざなみのこと」
「さざなみ?」
知っていた。和さんが、教えてくれた。
でも、知らないふりをした。
聞きたいことが、彼女にかかわることならば、
志野さん自身が、彼女のことをどう考えているのか、知っていたほうがいいと思った。
それに、彼が自分の中の細波をどう語るのか、ほんの少し、いじわるな興味もあった。
……まさか、3行にまとめちゃうとは、思わなかった。
さざなみは、恋人に裏切られて、失望して。
水神の生贄に名乗り出て、裏切った恋人に意趣返しするつもりで。
それなのに。
「最後に言いたかったのは、ごめんなさい、なんだ」
ことばを探して黙り込む。
「どうしてか、わかるかな。 どうして、あやまるんだろう」
なるほど。
わたしは得心した。
これは、たぶん、わたしにしか聞けない。いいえ。
お父様や、和さんには聞きたくないのだろう。
「ごめんなさい、では、おかしいかしら」
わたしの問いかけに、素直にこくん、と頷いた。
「うん。……いや、おかしくないのかな。ただ、俺にはわからない」
かわいいなぁ。
横顔を見ながらそう、思う。
弟、って、こんな感じかしら。
あ、まつげ、長い。
「どうして、細波さんは、贄になったのかしら」
「去った恋人に覚えていてもらうため」
「そうね。きっと、そんな風に失えば、忘れられないわ」
「失う?」
失ったのは、さざなみの方。
ことばに出されない声が、目で語られる。
大きな目。
大きくて、きれいな目。
通った鼻筋
うらやましいな、と思う。
「彼は細波さんを嫌いになったわけじゃないのでしょう? とても勝手なことかもしれませんけれど、彼なりに、細波さんの幸せを願っていたはずです」
「だけど」
「ええ、もちろん、それが細波さんの救いになるなんて思わない。思わないけど」
言いかけて、ふと、思い当たった。
「志野さん、恋をしたことはおありかしら?」
こんなことを考えるのは失礼かもしれない。
でも、その瞬間の志野さんの表情は、とっても面白かった。
大きな目が、もっと大きく見開かれて。
何かを言いかけた口元が震えて。
それから、怒ったような表情で目を逸らした。
「志野さん?」
答えはなんとなくわかっていたけど、面白いから、聞いてみた。
「……ない!!」
やっぱり。
それからしばらくの間、それどころじゃなかったんだ、この力のおかげで、と。
聞いてもいないのに彼は言い訳を続けていた。
そうね。確かにそれどころじゃなかったでしょう。
「これからは、違いますね」と言ったわたしの、いじわるな相槌に暗がりでもわかるほど赤面する。
背伸びして、大人ぶって。
でも、わたしが18歳だったときより、ずっと幼い。
思い切り声を立てて笑い出しそうになって、我慢していたから、わたし、すごくへんな顔をしていたと思う。
でも、志野さんは自己弁護に手一杯で、わたしが笑いをこらえていることにも気付いていない様子で。
かわいいなぁ。
「大切に思っていたと、思うの」
それがたとえ独りよがりの思いやりでも。
「だから、そんな風に失って、すごく傷ついたと思うの。
それから、自分がどれほど細波さんの心を傷つけたのかを知って、悩まれたのではないかしら。それでも、きっと、自分の心に嘘はつけなくて、細波さんを選ぶことはできなくて。そのまま失ってしまったのなら」
きっとずっと、苦しみを味わった。
水に触れ、水面を見る。
それだけで、思い出してしまうから。
忘れようとすることにさえ、罪の意識を感じるから、忘れることさえできなくて。
「苦しまれたと、思うわ」
でも。
「それが本当に細波さんの願いだったのかしら」
「え?」
「苦しませることが、本当に、それが願いだったのかしら」
わたしを見て。
わたしを忘れないで。
わたしを思い出して。
望んだのはあの人の苦しみじゃなかった。
「笑顔、やさしい眼差し。幸せだったひととき」
取り戻せないとわかっていても、望まずにいられなかった幻。
「細波さんが求めたのは」
「叶わぬ夢」
「そう。だから、苦しむ姿を見て、与えてしまった痛みの大きさに悔い……いいえ、たとえ見なくても。本当はすっかりきれいに忘れ去られていたのだとしても」
苦しんでいるかもしれない、と。
思うだけでも。
「それにね、巫女であったのなら、なおさらだわ」
「どうして」
「巫女は人々を祝福するための、存在だから」
神は本来とても荒々しい。神々が荒々しいというよりは、荒々しさにこそ、人が神を見てきたのかもしれないけれど。それにしても慈悲の存在ではないことは、わたしもよく知っている。
巫(なぎ)は和(なぎ)。神々の威る心を和ませ、加護を祈るために捧げられる。それが神和(かんなぎ)と呼ばれる者の務めだから。
「神と人を繋ぐ彼女に祝福されなかった二人が、幸せになれたはずがないの。だって、里の人は湖の神と細波さんを、愛していたから。だから、二人は住みなれた里を、離れなければならなかったの」
古代の里は小さく、互いは離れている。確かな道が敷かれていたのでもない。
見送るものもないままに、旅立った二人が、無事に隣の里まで、たどり着けたとは限らない。
たどり着いたところで、受け入れられる保証はない。
なぜなら、里は里に住む者を養うだけの食物しか持たないからだ。里で採れる作物の余剰は、里では得られない物品との取引に使われる。
よほど恵まれた運がなければ。
「二人は生きてゆけないの」
だから、どうして、と泣いて罵ることはできなかった。
命を賭しても、放すことのできない手なのだと……思い知らされたから。
わたしが涙を流せば。
一言でも禍言を口にしてしまえば、里人は彼らを許さないから。
苦しみ。嘆き、そして怒り。
憎かった、それでも禍言をなげつけるには、愛しすぎていた。
愛してた、それでも言祝ぐほどに許せなかった。
抱え込んだ思いは、重すぎて。
封じるには、湖の底に鎮めるしかなかった。
許して。
あなたを言祝げなかったわたしを。
助けて。
今にも禍言が溢れそう……
「痛い、な」
ぽつりとつぶやく声。
「それで、ごめん、か」
バカな女、と投げやりな口調。
投げやりだけど、やさしい声。
不器用、なのだと思う。
やさしく振舞うことに、なれていないのか、照れがあるのか。
でも、和さんは、慣れすぎ。
「でも、水神さまは、そんな一途な細波さんをいとおしまれたのね」
志野さんの中の、細波さんに聞こえるといいのだけれど。
なぐさめる、そんなつもりじゃない。
巫女である彼女になら、神と祭られる存在が一人の人を惜しむこと。それがどれだけ稀なことなのか、きっとわかるはず。
「そうでなければ、ただの贄がご自身の妻として祭られるなんて、お認めにはならないもの。あのね、これ」
と、わたしが懐から取り出して差し出したのは、お社に落ちていた、青い石。
古い、勾玉。
「水の匂いがするの。わたしにはそれくらいしか、わからないけれど」
たぶん、あの日、和さんについていった子稲荷さんが、持ってきてしまったもの。
「水神さまは、細波さんのことを、とても慈しまれていたのではないかしら」
水神は清い者を好むから。
受け入れて、力を分け与え、妻と認めるほどに、愛しんでいた。
だから細波さんという人は、本当にきれいな人だったのだろう。
ひび割れた心を、つくろう術も知らぬほどに、清廉な。
水神さまのくださった思いは、細波さんが求めた恋ではない。それでも、
「志野さんが、持っているほうが、きっといいわ」
その手に握らせる。
あ、手は、意外と大きいんだ。
それに、骨ばってる。
ふうん。こんなにかわいいのに、やっぱり男の子なんだ。
「あれ、お二人でどうしたんです?」
縁側に座って話し込んでいたわたしたちに気付いて、和さんがやってきた。
湯上り。冷たい夜の空気に、湯気が立っている。
髪が、まだ、濡れてる。風邪を引いたりしないかしら。
和さんの視点がどこで止まっているのか、志野くんが気が付いた。
あわててわたしの手を振り解く。
乱暴な仕種。
唐突な動きに驚いてしまったわたしに、
「あ、ごめん」
あわただしく謝って、彼は立ち上がった。
「虫の音を、楽しんでいましたの。和さんもご一緒にいかがです?」
立ち上がった志野さんとわたしを、複雑な表情で交互に眺める和さん。何を考えていたのか、想像できたけれど気付かぬそぶりで、わたしは席を勧めた。
「ええっと、でも……」
まだ視線を往復させながら、和さんは躊躇った。
数秒間の空白を、虫の音が埋める。
ちちろ、ちちろ。
通りすぎた一陣の風に、その音が途絶えた一瞬。
「……俺は、いいや。もう。風呂、空いたんだろ? 行ってくる。ごちそうさま。お茶、おいしかった」
そのまま志野さんは立ち去ろうとして、振り返る。
「ありがとう」
「いいえ、こちらこそ」
わたしが何にお礼を言ったのか。
志野さんにはわかったかしら?
「……お休み」
「お休みなさいませ」
志野さんが角を回って見えなくなると、和さんが隣に座った。
庭に映る影が、志野さんより大きい。
「何をお話されていたんです?」
「気になります?」
「……いえ、その」
問い返されて言いよどむ和さんがあまりにも可笑しくて。
わたしはくすくすと、つい笑ってしまった。
「? 彩花さん?」
「いいえ、なんでもありません。知りたいですか?」
からかわれたことに気付いた和さんがむっとする寸前に。
教えてあげた。
「恋愛について、あれこれ」
吹きすぎる風が、庭木の葉を舞い散らす。
風が通り過ぎて。
宙を漂う葉が、はらり、はらりと地面に落ちた。
「は?」
と、かすれたような張り付いたような声を上げて、月明かりの中で固まってしまった和さんに、ゆっくりと補足。
「細波さんのことです」
ちちろ、ちちろ、ちちろ、ちちろ……・・・
さざなみ、と聞いて、ああ、なるほど、と。
和さんが頷くまでに3秒の間。
それから、眉間によってしまったシワを指でほぐしながら、和さんは、わたしにこう言った。
「彩花さん、最近、神主さんに似てきたんじゃないですか?」
「娘ですから」
答えたわたしに、ちょっと困ったような顔をむけて。
それでもその眼差しは優しくて。
湯冷めした和さんがそれから2日、風邪で寝込んだのは、また別のお話。
こっそりあとがき
このお話は
閑話「さざなみに揺らめく」
のちょっと後のできごとです。
書き上げてから細波ちゃんについて書き損なったことが多いなぁ、と思っていました。
しかしどこにつけたしても、いかにもな「説明」になってしまう。
不完全燃焼のまま、どうにもならん、とつぶやいていたところ、ヒロさんから「号泣」と題されたご感想をいただきました。
そのメールに号泣。
こ、この方なら、わたしの不完全燃焼分を読んでくださる!!
勝手な思い込みと、押し付けのようにヒロさんに贈った作品です。
ヒロさん。その節はありがとうございました。
ヒロさんからお許しがいただけましたので、皆さまにお披露目(さらしもの)。
とは申しあげましても、ちょっと本編からハズした感が否めませんので、ずっと隠しページでした。
しかし、あまりにも更新が滞っているので、苦肉の策。
閑話のひとつとしてあげさせていただくこととなりました。
書く直前までは、完全に細波視点で描いてみたいなと思っていました。
でも、すごく長くて重い話になりそうで尻込みし、(今でもすごく書きたいのですが、腕が追いつかない現状)それじゃあ誰に代弁させようかと考えたところ、この方の語りになったわけです。
女の子同士で、二人とも巫女さんですし、細波さんを一番理解できそうだなぁ、と思いましたので。
しかし、わたしは大切なことをひとつ忘れていたのでした。
うら若い女性の一人称で文章を書いたこと、なかったんですよねぇ。しみじみ。
しかもうら若くなくなりつつある(いや、すでにうら若くない説が有力な)
わたしが書いたお嬢さんは、非常に神主さんチックです。どぉして!?
えー、
湯冷めして風邪を引いて二日も寝込むほどの時間、縁側で何を話し込んでいたんだ、とか、そういう突っ込みはなし、ということで(笑)
では。次回こそ鬼喰第二話で。
タイトルは「共鳴(ともなり)」の、予定。