鬼喰 ― たまはみ ―

第一話 邂逅 一

 失業した。十五年来の職を失った。
 寒空のもと、私はため息をついた。灰色の雲がわたしの人生まで覆おうとしている。
 困ったことになった。
 私の視線の先には、高速道路高架建設のための説明が記された看板が、ふんぞり返った役人のように立ちふさがり、わたしが内に入ることを阻んでいる。
 そこは先日まで私の職場のあった場所だった。

 職場といっても、企業ではない。もちろん、役所でもない。もし役所だったなら、高速道路がそれを避けただろう。

 私は一応神職で職場は神社だった。しかし神主ではない。ただの祝(はふり)、しかもモグリである。

 神社と一口に言っても、いろいろあるが私の務めていた神社の祭神はウカノミタマノカミ、つまりお稲荷さんだった。わたしは十八歳で家を出てから今日まで、ここで祝の真似事をしながら、住込みで働いていた。ここはわたしの家であり、職場であり、少々大げさに言うならば人生だった。
 その神社が、なくなってしまった。
 正確に言うと、移転してしまったのだ。高速道路が敷設されるライン上に位置したために。
 移転先は神主さんのおうちの庭の一角である。
 時代の流れです、と彼は言い、笑った。
「わたしも、こちらのお稲荷さんも、これからは楽隠居をするんです。のんびりとね」
 そう言いながら愛しそうに、小さな社を見つめた。
「引越しといってもそれほど遠いわけでもありませんし、高速道路の排気ガスを浴びながら意地を張るよりは、いい環境の中でお世話したいんですよ」
「はあ」
 こうして私は失業した。なにか技能を持つわけでないわたしの再就職がかなえられる可能性は極めて低い。

 途方にくれるとはこのことだ。

 もちろん、神主さんは私の今後をきちんと考えてくれていた。
「そろそろご実家に帰ってさしあげたらいかがですか」
 実家に帰れ、とはいかにも厄介払いのようなことばだが、彼はわたしの実家を知っている。
「お母さんから、電話がありましてね。お父さん、最近体の調子が良くないというお話でしたよ」
「はあ」
 あの親父にかぎっては、体調不良などありはしない。親父の体調が崩れるようなら人類はとうに滅亡している。母が電話できるいわれはない。
 わたしの思いを感じ取ったのか、神主さんはにこやかにこう付け足した。
「お体の調子はさほどでもないご様子でしたけれどね。あの気合の入った読経が、電話口から聞こえていましたから。お母さん、きっとお寂しいんでしょうねえ」

 読経。

 わたしの実家は寺である。順当にいけばわたしは次代の住職だった。

 が、しかし。

「まだ、慣れませんか」
「ええ、いや、まあ……慣れたといえば、慣れたんですが、その……」
 神主さんの問いかけにわたしはことばを濁した。
「それも、仕方のないことでしょうねえ。君のように『見えてしまう』人には。わたしにはうらやましい限りですがね」
 神主さんはお茶をすする。
「わたしは一度でよいからうちのお稲荷さんのお姿を拝見したいと思いつづけているんですがねえ」
「……はあ。そう、ですね」
 いやいや、本当にうらやましい、と神主さんはおっしゃった。

 見えてしまう。

 何が、とは問わないで欲しい。

「まあ、ともかく、一度連絡くらいはしてあげなさい。そうそう、これが必要でしょう」
 神主さんが懐から取り出したのは、一枚の紙である。
「お父さんが、檀家さん廻りをする日時ですよ。この時間なら、お母さんしかお家にいらっしゃらないそうなので、電話もかけやすいでしょう」
 至れり尽せりの心遣いである。勘当同然に家を出たわたしは、父の外出時を狙ってしか連絡を入れることができない。父が電話口に出ようものなら、わたしだと知れた瞬間にガチャリと切ってしまうからだ。
「恐れ入ります」
 受け取りはしたものの、連絡する決意は今ひとつだった。
「それで、今後のことですがね」
「ええ」
「お家に戻るつもりがないのなら、ちょっと手伝っていただきたいことがあるのですが」
 家に戻らなくてすむのなら、犯罪以外のどんな手伝いでも進んでさせていただく。
 身を乗り出したわたしの様子に、神主さんはあくまでも穏やかな笑みを浮かべて言った。
「それはお家にご連絡をしてから、ということにしましょうか」

 そして、家に連絡を入れる決心がつかぬまま、わたしは神社跡で立ち尽くしているのであった。

 そもそもわたしが家をでる原因は、決して父や母、家族のせいではない。親族のせいでもない。ひとえにわたし自身のせいだ。
 正確に記するなら、主にわたしの視力である。
 視力のせいといっても、ありがたいことに色弱、色盲、盲目というような原因ではない。見えないのではなく、見えすぎなのだ。
 自覚したくないから言いたくはなかったのだが、この目はいわゆる物の怪を、幽霊を含めた超常識的存在を映してしまう。
 しかも、ぼんやりとではない。白い影でもない。その姿は実にはっきり、くっきりしている。
 どの程度クリアかと言うと、常識的存在との区別がつかないほどだ。ついでに言うと聞こえるし、触れるし、わたしの声も相手に聞こえる。
 最悪なのは、それだけ、でなんら対処の術を持たないこと。
 いわゆる、霊感はあるが霊能はない、というやつだろう。

「どうしたものか」
 つぶやきが口をついて出る。
 家に連絡すれば、帰らざるをえないだろう。少なくとも、一度は。そして一時帰省は、永続的に続きそうだ。
「いやだなあ」
 いや、なのは帰ることではない。帰った先にあるものだ。待つもの、といってもいい。
 わたしの帰りを心待ちにしているのは、母と、口に出さずとも父。それから、このままでは父の後継ぎにされてしまうと戦々恐々としているわたしの幼い弟。特に彼は熱烈な歓迎でわたしを迎えてくれるだろう。しかしこの件に関しては気の毒だが、わたしは家を継ぐことができない。僧侶としての教育を受けていないからだ。わたしは義務教育を終了すると地元の高校に進学し、卒業後は家を出てしまった。つまり寺を継ぐ資格がないのである。その点、弟は仏教系の高校に進学している。現在は寮生活をしているはずだ。したがってわたしが実家に帰った場合、将来的には弟が和尚でわたしは寺男である。
 これは当然で、いまだって祝モドキだから問題ではない。
 問題は、裏の墓地のみなさんだ。
 裏の墓地のみなさん。
 考えるだけで、ため息が出る。
 彼らは諸手を上げてわたしを歓待するだろう。そして毎日、毎晩、遊びに来るのだ。 わたしが不在だった間のできごとや、彼らが生きていた頃の昔語りをしに。
 親父が気合を入れて供養しているだけに、ひとさまに迷惑をかけるような不届きモノはいない。が、気合の入った供養にも関わらず、彼らが成仏する気配はない。じいさまもばあさまも若いのも日々墓地で日向ぼっこをしながら、井戸端会議に興じている。とくにじいさま連中は元気よく、春秋の彼岸には夜更けに酒盛りまでする始末だ。

「春も秋も、彼岸がもうちっと遅いといいんじゃがの」
「ほうじゃな。春は桜の頃だとなおええのう」
「桜に頼んでみたらどうかのう。咲いてくれんかのう」
「頼んだところで結果は知れとるわい」
「花の咲く頃合は神様の領分じゃあ。わしらごときにはなあんもできんて」
「何を言う。わしらも仏様じゃ」
「そりゃそうじゃったわな」

 だあっはっはっはっは。

「ほんなら、ちょっと頼んでみるか」
「ダメでもともと、じゃ。言ってみ、言ってみ」
 そして言ってみるものだ、と浮かれながら桜の下で花見をしていた。手拍子に、下手くそな長唄。実体などないのに回らないろれつ。すっかりできあがった様子。どれだけ騒ごうが奇声をあげようが、誰に注意されることもない。お化けには何もないという某アニメの主題歌は正しい。
 たまりかねたわたしが――なぜなら、わたし以外の人間は彼らの騒ぎを感知することがないので、それを迷惑に感じるなら、自分で言うしかないのだ――裏庭に出て、眠れないので少し静かにして欲しい旨を伝えると、
「おお、こりゃ和(あい)ちゃん。あんたもこっちにきて飲みなさい。さあ、さあ、さあ」
 言い忘れたが、わたしの姓は仰木、名は和。和と書いてあいと読むのはめずらしいようだ。長男なので、あい(うえお)という親父特有の笑えない冗談だったらしい。ちなみに弟はうえおではなく、洋(なみ)という。さらに下がいたら中華と書いて「のりか」とか「よしはる」とでも名付けたのだろうか。坊主にあるまじき食道楽のあの親父は。
「そうじゃ、そうじゃ。人数は多いほうがええ」
「ええ桜じゃぞう。月も見事じゃ。一口で二度おいしい」
「俺、未成年なんだけど」
 躊躇するわたしに、彼らは笑う。
「構わん、構わん、わしらは洋ちゃんの時分にゃ、もう飲んっどたわい」
 不良じじいめ。洋は、このときまだ三つだ。
「親父の晩酌の付き合いから始まっての」
「つかいで酒屋に行った帰りになめてみたりな」
「そう、それでな……」

 翌朝。

 墓地のはずれ、一夜にして満開になった桜の下。お彼岸の供え物のワンカップの空き瓶に囲まれ、空き瓶を握って泥酔する寝巻き姿のわたしが発見された。
 当時高校生だったわたしはそれが原因で一週間の停学処分を受け、親父の拳骨を数発食らった。しかも本命大学の入試にも行きそこなった。

「すまんのう、わしらのせいで」
 しょぼくれた様子で仏様のじいさまがたは謝ってくれたのだが。

「あれも、霊障っていうんだろうか」

 その一件で、わたしは家を出る決心をした。このままここで暮らせば、いつか乱心者と呼ばれるような気がしたためだ。何せ、墓地のみなさんはわたし以外の人間には見えないので、彼らが必死で……もう、死んでいるが、懸命に……懸ける命もないが……わたしの名誉と人格を証言してくれたところで、何のタシにもならないからだ。
 別れを惜しむ彼らに――こんなに惜しんでもらえるなら、狂人と呼ばれてもここにいたいと錯覚するほどの惜別だった――別れを告げ、わたしは当てもなく旅立った。

 ところが、わたしの受難はここからが本番だった。

 墓地のみなさまはわたしに非常に好意的であった。が、世の中はそれほど甘くない。それはあの世でも同じらしい。家を出たわたしは方々で散々な目にあった。それはまた機会があったらお話しよう。
 ともかく疲れたわたしはそういった存在のいない空間を探して探してやっとここにたどり着いたのだ。

 ご神域には、雑霊や物の怪は入れない。

 考えてみれば当然で、神域は強大なご神霊の言ってみれば縄張り(シマ)である。有象無象の雑魚が迂闊に近寄ることなどできはしない。越境しようものなら、場合によっては存在そのものが消し飛ぶだろう。

 事情を話し、住み込みで使ってくれと懇願したわたしを怪しむでもなく受け入れてくれた神主さんには感謝している。おかげでこの十五年、わたしは実にのんびりと平和に暮らせたのだ。

 ああ、それなのに……その安息の聖地が、消えてしまった。

 神様の消えた境内は初めこそ空っぽだった、が、しかし。
 大気中に何らかの理由で真空状態ができると、そこに周囲の空気が流れ込んでくる。同様に、霊的真空地には周囲の物の怪がなだれ込んできた。ひしめき合うように彼らは蠢いている。
 元境内を眼前に、入ることもできず立ち尽くしているのには、そういった理由もあった。

「すみません」
 物思いにふけっていたところ突然声をかけられて、わたしは飛び上がった。2センチは足が宙に浮いたように思う。
 ふり返ると、わたしの驚きぶりに驚いたらしい青年が立っていた。青年と言うよりは少年なのだろうか。微妙な年齢である。高校生くらいに見えるのだが、二月の半ば、この時間私服で出歩いているということは、大学生かもしれない。
 わたしはすかさず、彼の足元、影を確認した。そう、あちらのみなさんには影がない。物理的肉体を持たないのだから当然である。
 喜ばしいことに、彼には影が在った。この場合、相手は実体をもつ存在である。実体を持つ存在の中には、人ではない人に似た者も含まれるのだが、彼は人間だった。なぜなら、変化の類はわたしの目には影響を与えないからである。わたしの目はモノの本質を映し出す。だからといって、生きている人間の本質がわかるかというとそうではない。どうやら、生体は霊の器であり、同時に鎧や隔壁のような役目を果たしているらしい。
 安堵とともに、わたしの胸に社会人としての自覚が芽生える。
「あ、なんでしょう」
 取り繕うように愛想笑いを浮かべたわたしに、彼は冷めた眼差しで、最低限度の礼儀を守り、尋ねた。
「この近くにあるお稲荷さん、ご存知ありませんか」
 冷めたというよりはむしろ冷たい視線だ。
「ああ、ええっと、ここにあったんですけど。何か御用ですか」
「……神社の人、ですか?」
「そうですが、あなたは?」
 彼は数瞬、ためらった。
「紹介で、神主さんに会いに来たんですけど、どちらに行けば会えますか」
「よろしければ、ご案内します。すぐ近くですよ」
 彼は胡散臭そうにわたしを眺め回した。これくらいの年齢は自らの感情を隠す術に長けていない。というより、隠さないことを誇りにしている。
 なつかしいなあ、こんな時分がわたしにもあった、と胸の内で呟く。口に出せば、少年が怒り出すことくらい容易に想像がついた。
「神社、なくなっちゃったんですか」
「ええ、高速道路の建設で。立ち退きになりました」
 ほら、と看板を指差すと、彼はそちらに数歩、移動した。そのとき。

「うっ」

 あまりの出来事に、わたしは声をあげた。抑えようとしたときには、もう声は出ていたのだ。