お茶はすっかり冷め切っていた。
老人はそれでも茶碗を取り上げると口を軽く潤す。
それから、
「捕らえられたイルージアはそれから数ヶ月を王都……もはや王都とは呼ばれぬティエル・カンにて過ごした」
老人は膝に置かれた赤い表紙を撫でた。
「待ってね。イルージアは、カルシュラートね?」
「そうだ。書にはカルシュラート女公、あるいは単にカルシュラート公と書かれる。そう書けば、若くして亡くなった先代のランガ守護カルシュラート公の息女であることがわかり、ファ・シィンの姪であることも一目でわかるからな」
わからないわ、と、フィル=シンは頬を膨らませた。
書を読み、祖父の話を聞きながら懸命に書き取ったメモには複雑な血縁が描かれている。
「英雄譚であるならば、その人の名が重んじられよう。ゆえにこの」
膝から書物を取り上げる。
「花傑伝では、イルージアと語られる。だが、史に語られるのは人ではない。人を含む流れだ」
「史の中には人がいる。けれど、記した目的は人の行いではない、ということ?」
卓の上に積まれた史書を見、次に祖父の顔を見る。
「史(とき)を記す目的か」
それは、と祖父は言いかけ口を噤んだ。そして問いを返す。
「では、フィル。お前は何のために史を学ぶ」
答えようとして僅かに口を開き、だが、言葉が出てこない。
何のために。
フィル=シンは口を引き結んだ。
答えられないフィル=シンの頭を老人は撫でる。
「ゆっくり考えなさい。考えながら、学べばいい。答えはその中にあるだろう」
さて、と、老人は卓の上に積まれた書から一冊をとった。
「エルディアの近衛左軍、東軍ともいうが、その上将であるイルージア、ファ・シィンの姪にして救国王ルフィシアの従姉は」
「長い……」
思わず呟いたフィル=シンに、祖父は破顔する。
「だから、カルシュラート公と呼ぶ。ファ・シィンはその血の上ではランガ守護職カルシュラート公の妹、若くして戦死した兄の名代としてランガの守護を務め、後に王の妃となったもの。つまり、カルシュラート公といえば」
「この時点では、ファ・シィンの姪である彼女しかいない、ということね」
「そうだ」
「彼女は数ヶ月を虜囚として過ごす……その後は?」
答えを真っ先に知りたがるのは時として良いことではない。
苦笑した老人はお茶を淹れなおしてくれとフィル=シンに頼んだ。
「上の棚に焼き菓子がある。それも持っておいで」
それからゆっくり話そう、と付け足した。
「わたし、自分がこんなにせっかちだったなんて、知らなかったわ」
お茶を淹れながら一人ごちたフィル=シンに、祖父は口の中だけで笑った。
知らぬことに気づく、それこそが、第一歩なのだと。
イルージアは虜囚であったが、むしろ賓客として遇された。
あてがわれた館の外へ出ることは許されなかったが、中での自由は認められていた。
彼女につけられた侍女は僅かに一人。しかし、これもエルディアの民であることを思えば、礼遇に値した。
王女、いやこの時王女はすでに戴冠を済ませている。女王とすべきか。
その消息が掴めぬ上は、彼女はその名代として扱われたのである。
だが、と老人は言う。その声には笑みが混じった。
ここにひとつの書がある。
青宮アルデシールの侍従を勤めた者の手記である。
彼は名をセラナスという。
ガラ国のスゥル(貧民)の出だと、その手記に自ら記していた。
後にザレーディールの姓をアルデシールから与えられたが、この当時はまだ従者として青宮に使えるようになったただのセラナスだった。
「ザレーディールが記したこれには、まるで物語のような事実が語られている」
老人はゆっくりと、キ・ファ語で書かれたそれを約す。
「カルシュラート公を遇するは至難であった」
カルシュラート公を遇するは至難であった。
特に女官をお付けするまでの二十日あまりの間は、その極みであったと記憶している。
なぜならば公は女性で、キ・ファの軍には彼の高貴なる女性をお世話仕ることのできる者が居なかったからである。
キ・ファ国には往時、士官はもとより兵に至るまで、一人として女性はいなかった。
軍規の乱れを厭う皇帝の厳命により、慰めのための女性さえも、その遠征に伴なうことはなかった。
公のお世話を仕る女官をこちらに送るよう本国へ使いを出すことを提案する者もあったが、これは拙の回らぬ頭で考えても、意味があるようには思われなかった。
カルシュラート公には礼を欠かぬようとの達しはあったものの、公が虜囚であることに変わりない。公に仕える者は身の回りを世話すると同時に、公がよからぬことを試みぬよう監視せねばならぬ。
公がただの女性であれば、後宮の高貴なる方々をお守りする女官で十分に事足りよう。
が、公は、エルディアは近衛の上将であった。
ファ・シィンの名はキ・ファ兵を震え上がらせるに十分な威力を持っていたが、そのファ・シィンと仕合し下した武人に、武術の心得がある程度の女官が敵うはずがない。
砂上での戦いを思い起こすに、武の心得などない拙の目にもその技はまた明らかであった。
したがって、カルシュラート公の側に仕えることが可能な者は、軍だけでなく、キ・ファ国にも「なかった」と言ってよい。
処遇に困った武官の間からは、いっそ手足の腱を切ってしまうか、と冗談まじりの声も聞かれたが、これも一国の姫君に対する処置としてはあまりにも野蛮であったし、女王が見つからぬ上はその代理として和平の調印にも立たせねばならぬ人であったため、冗談以上に取り合われることはなかった。
実に幸いに思う。
老人が読みあげる内容を、記述を追いかけながらフィル=シンは聞く。
「それでもまあ、なんとかやってゆけた。イルージアは人の手を借りずとも、大概のことを自分でこなせたためだ」
「それは、珍しいことなの?」
「エルディアやキ・ファ国の貴婦人たちを基に考えれば、とても珍しいことだったろう。なぜなら彼女たちは暮らしの一切を、人の手に委ねていたからだ」
しかし具体的にその状況を想像できないのだろう、フィル=シンは首を傾げる。
「着替えはもとより、髪に櫛を入れること、結い上げること、紅を引くことも爪の形を整えることにも人の手を必要とした。もっともそれは女性だけではないがね」
「窮屈そうねぇ」
「その窮屈が嫌でグァンドールは遠征を好んだと言う話もある。彼はもともと地方領主に仕える武人の子。どこに行くにも何をするにも付いて回る世話係に随分参ったらしい。即位してすぐに発布したのは、従者や女官に対するもので、呼ぶまで来るな、だったとも言う」
実際、グァンドール朝以降、従者や女官は「問われるまでない者としてあれ」が徹底されることになる。
しかし、とザレーディールは綴る。
しかし、実はその当初こそ、痛く陛下を――青宮殿下であらせられたが――悩ませることが再三にしてあった。
公がティエル・カンにて最初に求められたのは、湯であった。
思えば公はこのとき、七日あまりを馬上にて過ごされた後であった。
砂と、返り血にまみれた御姿は、青宮の従者として戦場を駆けた埃まみれの拙にとっても、痛々しく目に映るほどであったから、それは当然の要求でもあられた。
が。
虜囚を見張る理由は二つ。
「ひとつには」
老人は指を立てた。
「逃げること能わざると虜囚に知らしめること」
そして。
「ふたつには、自害をさせぬこと」
青宮アルデシールは特に後者を案じていた、と老人はその手記をめくる。
目を離すことはできぬ。さりとて湯浴みを見張るなどは言語道断。
逃げられることを恐れて湯浴みを許さぬのも、また見苦しい。
結局、部屋の内側に、入り口を囲うよう布を張られた衝立を二重に並べ、兵は部屋の外から衝立に向い立つことになった。
武人である公に背を向けることの危険を慮ったためである。
二重の衝立の間で公はお着替えをなさり、新しい衣もそこに置かれた。
これで公はその肌を兵の目に晒すことなく、湯浴みされることができる。
これは憚りながら拙が進言した方法で、実はガラ国のスゥルたちを入浴させるための手段であった。
逃さず、死なせずといえば、ガラのスゥル管理の手立てほど徹底したものはない。
それも重ねて申し上げた。
このときの青宮殿下のお言葉を拙はよく記憶している。
「では、せいぜい豪華な織物の衝立をご用意して差し上げろ」
苦々しいお声であった。
身分ある人を奴婢と同じく扱ってはキ・ファの名に傷がつくとお考えのようであった。
そこで、これは此度のみとし、公をお世話申し上げる女官をエルディアの民から取り立ててはいかがでしょうかと、いくつかの理由とともに重ねて申し上げた。
青宮殿下は頷かれ、そのようにせよ、と拙に申し付けられた。
ところが、この「此度のみ」が仇になった。今もその浅慮を猛省する。
卓の上に並べられたまばゆいばかりの品々に、セラナスは息を呑んだ。
床の上で平伏しているのはエルディアの商人だと聞いている。
なんでもエルディアの王室御用達の宝飾商だという。
商人は恰幅のよい体を限界まで折り曲げて犬のように床に伏せ、ぴくりとも動かない。
そしてその前で眉を寄せ厳しい顔つきをし、麗しい品々を眺めているのが彼の主だった。
殿下は無口でいらっしゃるから、と思う。
商人を怖がらせていることにもお気づきでないのだろう。
さて、茶を運ぶよう言いつけられ訪れたのだが、一体どこに置いたものか。
「殿下」
茶器を持ったまま指示を仰ごうと声をかけると、手招きをされた。
青宮は無造作に品々を動かし、卓の一部を空けた。
「そこへ置け」
「いかがなされましたか」
国の母君への土産でもえらんでいらっしゃるのだろうか。
つい、訊ねてしまってからしまったと思う。
呼ばれるまでない者としてあれ、をセラナスはすぐに忘れる。
それが理由で、これまでに三度、主を変えた。いや、変えられた。
だが幸いこの主はそれを特に咎めない。
「此度の非礼を詫びるには何がよいかと思ってな」
非礼と聞き、ああ、カルシュラート公にお贈りするのか、とセラナスは得心した。
やはり「衝立」は好くなかったのかもしれない。
口を出したことが悔やまれた。
ではこれが終われば、さっそく女官の選出をなさるだろう。
セラナスは茶器を整えながら考える。
布告を出すための草案をご用意されるだろうから、まずは墨の用意を、と考える。
と、青宮が大きくため息をついた。
「殿下?」
反射的に、いかがなされましたかと問おうとし、慌てて口を押さえた。
「どれも同じに見える」
セラナスの様子には構わず、青宮は再びため息をついて椅子の背に身を預ける。
品々を凝視する青宮に、セラナスは控え目な相槌をうった。
「お好みもございますでしょうしねぇ」
セラナスはとりあえず固まったままの商人を宥めて椅子を勧める。
青宮は決して無骨な男ではない。が、口数の少なさが災いしてか、人を遠ざける傾向にあった。
今も商人は萎縮して目も上げられないでいる。
何か適当なものを贈っておけば形だけは整うのに、何を手間をかける必要があるのだろう、とも思った。
同時に今これを贈って、公が受け取るだろうかとも思う。
ともかくも、それはセラナスの案ずることではない。
どうぞと茶を双方に勧め、余分な口をはさむ前に退出しようと頭を下げた。
そのセラナスに、青宮は問いかけた。
「たしか銀細工の簪をさしていたな。花を模っていたと思うが」
「はい。あれもとてもきれいな品でした」
戦場には少々場違いなほど、との言葉は寸でのところで封じ込むことに成功する。
「で、では、対になりそうな耳飾などはいかがでしょう」
椅子に座った商人が震える声で言う。
「その花……花は、どのようなものでございましたか」
他を下げ、銀で花を模した耳飾をいくつか並べる商人の手元をじっと見ていた青宮はしばらく考えた後、
「おまえ、覚えているか」
傍らに立つセラナスに訊いた。
「……たしか、これによく似ていたと思います。四弁の、もうすこし丸いやわらかな印象の」
ひとつを指差すと商人がははあ、と頷いた。
「これにですか。それではおそらく王家の花でしょう。もう少し丸い、薄い花びらの、でございましょう」
それは王の娘のみが身につけることを許される特別な花らしい。
アディナの紋、と呼ばれる花で、
「俗に銀の花(ファ・シィン)と申します」
その名に身を引いたアルデシールが再び難しい顔で黙り込んだ。
「アディナの紋となりますと、これは王家の許しなく作ることが許されません。いかがいたしましょう……その、お作りいたしましょうか」
エルディアはキ・ファ国に下った。ゆえに、我が命において作れ、とは言わぬところが、青宮のよいところだとセラナスは思う。
「思えば、それも不遜であった、とザレーディールは述懐している」
従者が主を評価するその逆転にフィル=シンが小さく吹きだした。
「いや、他のものにしよう」
でしたら、と、商人が身を乗り出した。
「その脇花でお作りするのはいかがでしょう」
説明によるとアディナの紋は王の娘に等しく与えられる花であるが、その脇花として飾られる植物は、身につける人や贈られる用途によってそれぞれに異なるのだという。
「カルシュラート公であれば、おそらくは瑞香かと思われますが」
ではそのようにと言うと、商人はできればその品を見せていただきたい、という。
「一口に白銀と申しましても色がそれぞれに異なります。軽微な差ではございますが」
そういって二つの耳飾を並べた。
「このとおり、並べるとその違いは明らかでございます」
確かにひとつは白く、ひとつは青みを帯びている。
示されて青宮が感心したようにため息をついた。
「殿下、いっそ、お預けしてはいかがでしょう」
セラナスがいうと、得たりと商人が頷く。
「そうしていただければ、必ずやご満足いただけるものをお作りいたします」
と、青宮の表情に困惑が混じった。
「嫌な予感がした」
手記を読み上げる祖父の口調が変わった。
額が冷たくなったように感じた。
まさか、と思った。
セラナスは訊いた。
「殿下、公はまだその簪をお持ちでいらっしゃるのですか」
声の上ずりを隠せなかった。舌を噛みそうになる。
その通りだが、どうした、と問い返す青宮の顔が、いや、セラナスの視界が暗転した。
瞼の裏に細かな銀粉が散る。
膝が砕けた。
突如姿勢を崩し前方へと倒れたセラナスを青宮が支える。
「おい」
「殿下、いけません」
どうした、と、問い、セラナスのために人を呼ぼうとする青宮の袖を掴む。
頭をはっきりさせようと振ったが、それは混乱を解く役には立たなかった。
かえって酷い眩暈を引き起こした。
「いけません、殿下。公を、公をお止めしなければ」
怪訝な表情でセラナスを見返した青宮の服に取りすがった。
「お止めしなければ。殿下」
まだ不慣れなキ・ファの言葉を紡ぐことが難しかった。
震えて掠れる咽喉で、懸命に紡ぐ。
「簪が、簪があれば人は死ねます」