なぜ、というフィル=シンの疑問に、年表は答えない。
無機質なまでに整然と並べられた事象。
これのどこが重要なことであるのか、理解に苦しむ。
過ぎ去った出来事に価値を見出せないのではない。事実を列挙して数え上げる行いに、価値を見出せないのだ。
だから、フィル=シンは歴史が苦手だった。少なくとも、歴史の授業は嫌いだった。
因果関係もわからぬままに覚えこむこと。それはフィル=シンの望むところではない。
とは言っても、学生の身分。将来、好きな学問と研究にうちこむためにも、どうしたってこれを切り抜けなくてはならない。
しかたなくその赤い革張りの表紙を持つ正史書を繰り始めたのは、どれくらい前だったのか。
たしかそのときはまだ、日があった。
いまはすっかり暮れて、窓の外には胸が詰まるほどの星空が見えている。
今日は二十一夜だ。月が出るまでは、やってみよう。月が出たら、眠ればいい。
ひととき窓の外に視線を投げたフィル=シンは、再び史書に目をおとす。古びた書物を見つめるフィル=シンの眉間には、再三、深いしわが刻まれた。
文字は読める。今現在使われているものよりも、多少煩雑なだけだ。これは問題ではない。
しかし史書は史書官の使用する独特の言い回しで書かれていた。
「結局、なにが言いたいの」
つぶやくことばにも疲労の色が濃い。
そんなにしてまで、なぜこれを読みつづけているのか。
理由はいたって明快だ。
試験が待ち受けているからである。
ただし、フィル=シンが今回受ける試験は、卒業試験であり、同時に上の学校への進級試験でもあった。
「どうして、よりによってこれがくるのかなぁ」
試験は毎回、とある一教科を選んで行なわれる。
一発勝負なのだ。
つまりは、どの教科のどの範囲を出題されても、合格点に達することができる者を選別する、それがこの試験の目的。
もちろん、一発屋の進級を防ぐ手立ては万全である。
なぜなら、そういった兆候の見られる者は学ぶ意思がないと見なされ、即座に試験資格を剥奪されからだ。ようするに退学させられる。
学び舎で学ぶ者は、官吏としていずれ国を負う。ひと時の甘えさえ許されない任に就く者としての自覚に乏しい輩に無駄な時間を割くのは税の無駄遣い。
それがこの国の学舎のあり方だった。
まあ、しかし、フィル=シンにその危険はない。学舎でも秀才で通っているのだから。
たとえ今度の試験に通らなくても、まだ時間がある。
平均して十八歳で進級することを思えば、このあたりで一度挫折を味わっておくことも、無駄ではないだろう。なぜならフィル=シンは当年十五歳。官吏登用の年齢制限が二十五歳であることを思えば、まだ十年の余裕がある。
だから、ひょっとして、とフィル=シンは思うのだ。
「歴史」で試験を行なうのは、フィル=シンの進級を阻むためではないのか、と。
異例の速さで進級してきたフィル=シンは、自分でも思うのだが挫折を知らない。
これを機に挫折を教えようとしているのでは。苦労しらずのフィル=シンには、すこし苦労してもらおう、などと思われているのかもしれない。
そう考えれば考えるほど、悔しい。
なぜなら、苦労していないわけではなかったから。
「と、好きでやってることだもの。苦労とは、いわないか」
眉間のしわをほぐしながら、フィル=シンは息をついた。
ゆっくり息を吐き出すと、緊張した筋肉が和らいでほっとする。首を左右に数度動かし、また史書に集中した。
が、しかし、どうしても気持ちが散じてしまう。文字を読むのに指で追わなくてはならない。
試験を見送るのはイヤだ。そう、得意な教科で進級するのは簡単だが(フィル=シンは自信家でもある)、それでは意味がない。
不得意中の不得意で、勝負する。
それでも、フィル=シンが勝ったなら、師や兄弟子たちは何と言うだろう。
少なくとも、
「ちょっとばかり出来のいい、恵まれたお嬢ちゃん」
なんて言い方はしなくなると思うのだ。
決意と野望を胸に、フィル=シンは史書に三度視線を戻した。
今回の試験の範囲は、これまでに比較して非常に短い。史書で言うならたった六巻。
史書六巻。それはつまり、その史書に記載されている国のある王が王位に就くまでの経緯。
それでも。
この王の成した事の多さを思えば、例え六巻といえども、歴史を苦手とするフィル=シンには厳しかった。
史書から年表をあらてめて起こしつつ、読んでいるのだが、この一ヶ月で教えられたはずの(はずの、というのは、教師はそういうのだが、フィル=シンにその記憶がないからだ)ことが、まるでわからない。
「だめだわ」
諦めたというよりは、投げ出した風情で、史書を閉じ、椅子の背に体を預ける。
「だいたい、人一人の一生を数ヶ月で覚えろなんて、それがそもそもの間違いなのよ」
固くこりかたまった背骨を伸ばすついでに、深呼吸。吐き出された息はため息に近い。
「フィル。まだ起きていたのか」
「おじいちゃん」
まだ起きていたのか、ということばとは裏腹に、祖父の手には夜食を乗せた盆がある。
生真面目なフィル=シンが、根を詰めてしまうことがわかっていたのだろう。
早くに両親をなくしたフィル=シンを引き取ってくれたこの老人は、正しくは祖母の弟、フィル=シンの大叔父にあたる。そして唯一の家族でもあった。
「熱心に勉強するのは結構なことだが、できるなら、試験が近づいてから慌ててやるよりも、毎日勉強するほうがいいのではないかな」
差し出された夜食を受け取りながら、フィル=シンは苦笑する。
「そのとおりだとは思う。だから、他の教科では、こんなに苦労してないわ。ちゃんと毎日勉強してるもの。でも、毎日読むにはちょっと不向きでしょ? これは」
「ほう。何をそんなに」
机の上におかれた史書に目を留めた老人は、ちいさく笑った。
「リ・エルディア国史ルフィスイリアの書、か。なるほど。これは手を焼くだろう」
その史書の膨大さを知る老人は、その古ぼけた表紙に手を伸ばした。先年まで王立図書館の筆頭司書だった彼は、懐かしげに頁を繰る。祖父のどこか楽しげな表情に、フィル=シンは少し眉を寄せる。
「そう。もっとも、今回は全八十一巻中の最初の六巻分。ええっと、キ・ファ戦で王都が失われるまで、かな。これに通れば、第二試験はリ・エルディア建国までの、十二巻。最終試験は口頭試験で、ルフィスイリアの書から出題される試験官の問に答えるの」
机の左脇によけられていた書を祖父に見せる。
「これが、その第一試験の範囲の教科書」
史書一巻のおよそ六分の一程度の厚さのそれには、ルフィスイリアの略歴と業績が、時系列で記述されていた。
「ふむ。で、フィル、おまえは、何ゆえに教科書ではなくて史書をみているんだい」
「だって、おじいちゃん。見て」
フィルがぱらぱらと頁を繰り、指差した先を祖父は声に出して読んでみた。
「五一〇年春、ルフィスイリア、第三王女として誕生。母は第二王妃。
五一八年夏、大神官の第一子と婚約。
同年冬、大神官側の事情により婚約破棄。
五一九年、東方の国キ・ファ帝国と戦端が開かれる。
五二四年、ラ・エルディア国女王として即位、
同年、ラ・エルディア国滅亡……随分簡潔にまとめられているな」
奥付を見、その筆者を確かめると祖父はごく小さく、なるほど、とつぶやいた。声に含まれている笑いの響きから、編纂者は祖父の知り合いなのかもしれない、とフィル=シンは思った。
「それで、なにか不都合でも?」
「まとめすぎなの。略しすぎ。覚えやすいけど、これじゃ何がどうなってんのか、全然わからないじゃない」
第二王妃腹の第三王女がどうして十四歳で国主に??
なるほどなるほど、と微笑みながら頷き、老人は「孫娘」の頭を撫でた。
「よく勉強しているようだ。そう、エルディアは女系。王位継承権を持つ王の娘と結婚した王族の男が王になる。リ・エルディアとなってからはそうでもないが、その前身ラ・エルディア国では、そのしきたりは強固だった」
「そうなの。だってね、不思議なのよ。ルフィスイリアの前の王は、正妃の一人息子。彼女の腹違いの兄ね。その前は第三王妃の生んだ第一王女、つまり彼女の異母姉の夫。その前がルフィスイリアの父」
彼女は第三王女ではあるけれど、正妃に娘がいないのならば、彼女の婚約者こそが次の王となるべきではないのかしら。大神官の夫は王弟だから、彼は血筋的にも問題ないはずだもの。それが、破棄なんて。
つぶやくフィル=シンに、祖父は笑う。
「なるべきだった、ではなく、なるべき、とな。フィルは、すっかりエルディア史に夢中だな」
指摘されてはじめて気付いたのか、フィル=シンは瞬きをした。
「夢中になって、試験勉強どころではなかったようだ」
笑われて、膨れながら、フィル=シンは祖父の作った夜食を頬張った。
フィル=シンがそれを飲み込むのを待って、それで試験はいつなんだ、と問うた祖父にフィルは、十日後、と短く答えお茶を飲んだ。
「また、随分な間があるじゃないか。根を詰めることもあるまいに」
「覚えるだけなら、できると思うわ。この教科書の範囲のことならね。十四歳にして有能な執政官だったことも、その斬新な政策も、彼女が何をしたのかを覚えるだけなら。でも、わからないことが多すぎて、納得できないのよ。わかっていないことをわかったことにされるのはイヤなの」
教科書も、年表も、本当にわたしが知りたいことには答えてくれないんだもの。
年齢よりも大人びて見られることの多いフィル=シンは、そういってため息をつく。それから唇を少し突き出して、そっぽを向いた。
学舎では決して見せることのないそぶりは、年相応に愛らしい。
そうか、と微笑んだ祖父はフィル=シンの寝台の端に腰を下ろす。
「フィル、ルフィスイリア女王の名は知っているか」
「ルフィスイリア・ディライス=エルディアル=セイキシァス」
フィル=シンが即座に読み上げた名に、祖父は重々しく頷いた。
「そのとおり。だが、しかし、それは当人の死後、聖なる音によって読み上げられた名だ。本来の名は、ルフィシア・ダイス=エルディアナ=サキス。人々からはサキス・カーラと呼ばれていた」
「サキス・カーラ?」
「カーラは、そのままに訳すなら『ちいさな愛しきわが主』というところだ。可愛い姫君、ちいさな主と慕われていたのだろう」
サキス・カーラと小さく繰り返したフィル=シンに、老人はゆっくりと頷いた。
「ラ・エルディア国滅亡のそのとき、サキス・カーラは御歳わずかに十三歳。ラ・エルディア初の女王であり、また、最後の王として戴冠に挑む、まさにその日のことであった」