第4章 一日千秋 (2)

「さて。結構大変なことになりそうね……。今の患者さんたちのカルテだけじゃなくって、過去のカルテも、要るでしょ?」
「見せていただけると、助かります」
 5,6歳は年上に見える高蜚廉は丁寧な口調でそう答えた。黄麗が見る限り、患者として日常運び込まれる横着な町の若者たちより、高蜚廉はよほど礼儀正しい。右頬に走る大きな傷跡さえなければ、どこかの御曹司に見えなくもない。が、やはりその目に宿る深さと鋭さは、命をやり取りする職につく者のものだ。
 狂気、そして理性。相反する二つの要素が入り混じり、溶け合っている。
「……どうかしましたか?」
 じっと見つめる黄麗の視線に気付いたのか、高蜚廉が訊ねた。
「変わった目の色ね。七宝の焼き物みたい。緑にも、薄茶にも、金色にも見えるわ」
「ああ、これですか……義眼なんです。目立たないように作ったつもりんですけど……どうしても日の光が差し込むと下のメタルの色が浮いちゃうんですよね。気になります? 自分では、けっこういい出来だと思ってたんですが」
「自分で? 自分で作ったの」
「外側だけは。朱日烏のつくるドールパーツは機能的には充分すぎるくらいなんですけど、視覚的な要素に関しては適当なんです」
 なんとなく、ではあるが、わかる気がした。朱日烏という人は、あまり、外見に頓着する性格ではなさそうだ。
「彼女を必要とする患者が多くて、外側までは構っていられない。気になるのなら、自分でやれ、と。仕方のないことです」
「ふうん……両方とも?」
「そうですよ。はずして見せましょうか?」
 ボタンか、指輪か、はたまたピアスか。はずして見せましょうか、とにこやかに言う彼の口調には緊張がない。
「結構」
「よかった。一度はずすと簡単にははめられないんです。はずしちゃったら、見えませんから。3D福笑い状態です」
 一瞬その光景を想像したのだろうか。黄麗の表情から硬さが消えて、厭きれとも感心とも取れるような口調でこういった。
「……まずいこと聞いちゃったな、って。あやまろうと思ったんだけど、やめるわ。だってあなた全然気にしていないもの」
 気にしてはいるんですよ。でも、気にしたって仕方がない、ってのも本当ですから。それより、褒めてもらってうれしいってのもあります。七宝か。うん、悪くないな。
 そうつぶやいた高蜚廉のことばに、どう返事をしたものか迷った黄麗は、結局判断つきかねて、小さく息を吐いただけだった。
 そして話題を転換する。
「いつかこういう日が来るとは思ってたけど、気が重いわ」
「何が、です? もしかして、診療履歴のことですか」
 黄麗に半歩遅れて蜚廉はついて行く。黄麗は小柄ではないが、どうしてか小鹿のような印象を受ける少女だ。蔡氏からは19歳と聞いているが、姿だけで判断した場合、もう少し幼く見える。もちろん、一旦口を開けばその鋭い舌鋒に幼い印象は吹き飛んで消えてしまうのではあるが。
 その黄麗の軽やかな足取りとは逆に、彼女の表情は重い。あまり乗り気ではないことが、高蜚廉の目にも明らかだった。
「ううん、別に、見せたくないってわけじゃないの。見せて困るようなものでもないしね。ただ、ちょっとね」
「はあ」
 蜚廉は曖昧な相槌を返す。困惑、と書いたように現れる蜚廉の表情を見て、黄麗はもう一度、今度はふーっと長く息をついた。
「これも仕事の一環だから、仕方がないんだけど。仕様がないんだけど」
「……」
「量が半端じゃないのよねえ。ここ貧乏だから電子データじゃないし。でも、でもね、4分の1くらいは、それでもわたし、整頓したのよ」
 呟いた黄麗が一つのドアの前で立ち止まる。ポケットの中から鍵束を取り出し、目当ての鍵を探し出す。
 アナログな設備に高蜚廉が目を見張る。そして、まさか、診療履歴とは紙束のことか、いやいや、そんなことはないだろう、と不意に沸き出でた不安を打ち消した。が、
「とりあえず、整頓されてる分から見るしかないわ」
 開かれたドアの向う、堆く積まれた書類の山を目にした高蜚廉の口は半開きになった。金褐色の目は、見開かれたままである。
「この端末から、今の患者さんと過去3年のデータは閲覧できるの。それ以前は、こっちの山ね。手前から順に4年前、5年前、6年前……。10年以上前の分は、まだ手付かずなんだけど。うちの患者さん、探られたら痛いお腹の持ち主も多いから、医療データバンクにも繋げなくて……全部本人との会話から得た情報だから、どうしてもメモ用紙の束になっちゃうのよ。紛失してないだけわたしとしては上出来だと思ってるわ」
「楊さん」
「なあに?」
「もう一人くらい、手伝いを呼びませんか」
「……そうする?」
「ええ、是非にも」
「いいわ、呼んで。誰か適任がいるの?」
「適任、というより、これをわたし一人で完璧にチェックする自信は正直持てません」
「そうね、同感だわ。じゃあ、わたし、もう二つ端末用意するから、もう一人は高さんの任意で選んで」
「もう二つ?」
「わたしが少しでもその紙の山を端末で検索閲覧できる状態にすれば多少でも早く片付くでしょう。だって、叔父さんの字を読むのって、なかなか難しいの。たぶん、あなたには、読めないと思うわ」
 言った後で、黄麗は首を小さく横に振った。
「いいえ、違うわね。たぶん、読めないわ。わたし以外には」
 そういって手近にあった書類を一枚蜚廉に手渡した。
「どう? 読めないでしょ」
「随分達筆なんですね」
「いいのよ、正直に言って。字のようには見えないって」
 黄麗の言うように、それは素晴らしいほどだ。字には見えない。謎の紋様である。これならばまだしもテラに描かれているナスカの地上絵のほうが良くわかる。鳥、そして猿。
「だから、わたしがそれを読める形にするから、チェックはそちらでお願いね」
 端末の検索中に一山片付けば御の字だけど、と黄麗は言う。
「いっそ、総動員しますか」
「無理よ。言ったでしょ、貧乏だって。端末は用意できてせいぜい3台だし、人ばかり多くてもこの書類の山じゃ、ね。読めるのはわたしひとりなんだし。紛失の危険性を無視できないわ。その一枚が命取り、なんてわたしはイヤよ」
「……申し訳ありません。感謝します。でも、過去五年分で、おそらくは大丈夫です。それ以前のものは、落ち着いてからゆっくり調べることにしませんか」
 律儀に頭を下げた蜚廉に、黄麗は初めて笑顔を見せた。多分に苦いものが混ざってはいたけれど。
「そうね。5年が関の山だわ。感謝してよね。五年分だって、充分に大変なんだから」
「はい」
 蜚廉はもう一度深く頭を下げた。
 黄麗は知らなかったが、蜚廉が頭を下げてまで敬意を表するのは、極めてというほどではないが稀である。具体的には、直属の上司である日烏、他には日烏と同列以上の幹部数人である。
 その中でも、日烏と対等以上に渉りあえるのは、蜚廉が知っている限りたった一人。曹連幸だけである。李翠燕でさえ、彼女との全面対決は避けるというのに、その日烏を交渉相手に黄麗は一歩も退かなかった。頭も自然に下がろうものだ。
 端末を用意するために部屋を出る黄麗を見送ると、蜚廉は手首の通信機で青鸞を呼び出した。二分後部屋に到着した柳青鸞が、まるきり自分と同じ反応を示したことに大笑いしながら、蜚廉は専用回線を使って城を経由し、要塞に連絡する。
 黄麗が示した端末をざっと調べ、同様のものを五台用意してほしいと蜚廉は願い出た。
「予想外の事態が発生しまして。カルテ、全部紙なんですよね……姪御さんの整頓した過去三年分だけが電子データとして保存されてるだけで。全てを照合するには、ちょっとここの設備では難しいように思います。それから、医療データバンクとの繋がりはないようなので、その点は好都合です。これに関しては確認が取れ次第、再度ご報告いたします」
 連幸、いや、花散里は機嫌よく頷くと、それでしたらこちらからも検索できるようにさせましょうと言う。鮮やかなターコイズブルーのチャイナドレスに白い肌がよく映える。手にした白い羽扇でゆっくりと扇ぎながら、花散里は微笑んだ。
「そちらからデータを入力していただければ、照合はこちらでさせていただきます。テラの目をかいくぐる方法は、何か李様が考えてくださいますわ。ですから、大変でしょうけれど当面は、そちらで頑張って調査してくださいませね。ご要望のお品は昼までにご用意いたします」
 ところで、と通信機の中の花散里が声を顰めた。
「噂の黄麗さん、いかがでして?」
「噂どおりです。立派な方ですよ」
「まあ、めずらしいこと」
 高蜚廉が人を誉めるなんて、わたくし初めて耳にいたしましたわ。
 そうからかわれた蜚廉が苦笑する。
「人を偏屈モノのように言わないでくださいよ。ま、ともあれ、善意に流されないというのはすばらしい美徳ですよね。きれい事の裏に、どんな悪影響が発生するか、直視できる勇気がいいです。頭の回転は速いし、機転も利く。着眼点もなかなか。磨けばいい指揮官になるでしょう。残念ですね。仲間に引き込むわけにはいかないっていうのも。朱日烏相手に退かない度胸には惚れ惚れしました……蔡先生の姪なんですよね。意外と言いますか、いかにもと言いますか」
 ふむふむと、楽しげに頷いていた花散里の艶やかな姿が掻き消える。同時に。蜚廉と青鸞は、突如割り込んだ大声に、思わず手首の通信機を隠すように押さえ込んだ。効果はほとんどない。
「違う違う、俺が聞きてえのは黄麗ちゃんの姿形よ。センセ自慢の子猫ちゃ」
「王虎。……失礼。では、そのように、よろしくお願いいたしますわね」
 にこやかに微笑んだ花散里に敬礼して、通信を終えた蜚廉はモニターを通して見た映像を、青鸞に確認した。
「今、王虎、転がったな」
「……花散里さまに、張り倒されて。すごいな。両足が浮くとは思わなかった」
「あの白羽扇、骨は鋼だったのか。重そうだな。三キロはあるんじゃないか?」
「曹連幸、だから。あの人……」
「普段、忘れてるんだけどな」
 あのたおやかな姿のどこにそんな臂力が隠されているのか、ぞっとしながら、顔を見合わせる。王虎は偉丈夫であるだけでなく、その体の二〇%弱が特殊合金で出来ている。体表だけを見ればまさに二分の一は合金製だ。そもそも王虎のドール加工は、通常の人間が適応できる範囲をはるかに凌駕しているのだから。あの左腕も、その重さに耐えうる肩や胸の筋力あってのことだし、一蹴りでシェルターの壁を砕く左脚も、生身の右脚や腰の筋力が弱ければ、蹴った瞬間に股関節から外れて落ちる。すでにして生身部分だけでも充分超人的な筋肉に守られた王虎の、したがって体重は、同じ体格の生身の人間よりずっと重い。その王虎を、羽扇で叩き転がす連幸の剛力は如何ほどのものなのか。しかもバックスイングはほとんどなかった。
「あのひと素手で人を引きちぎれそうだな。本当に生身なのか?」
「でなきゃ、朱氏があそこまで遠慮するはずがない。それに、やらねえだろ。手が汚れる、とか言いそうだし」
「そうだな、花散里だからな」
「なあに、花散里さんがどうかしたの」

 小型の端末二つを抱え持って入ってきた黄麗に、そそくさと歩み寄った二人はそれぞれ一つずつ端末を受け取ると、さりげなく左右を固める。どこから、どの程度話を聞かれていたのか、確かめなければならなかった。場合によっては、と考えた蜚廉は、聞いていないことを願いつつ話題を振った。
「うわさなんですけどね」
「花散里をご存知なんですか」
「ええ。叔父さん、彼女のところに頻繁に通ってるの。それで帰ってきたら今日は何を着ていて、香は何とかでってうるさいんだもの。本当に一日二日は、しゃべりつづけるのよ。きっと新米の禿さんより、わたし花散里さんのこと、詳しいわ。イヤになっちゃうなあ」
 端末のセッティングをしながら、彼女は頬を膨らませた。どうやら花散里ということばだけを、彼女の耳は拾ったらしい。ほっとした蜚廉の顔からこわばりが消える。
 この少女に口止めを頼むのは難しい。すべての事情を話して理解を求めるより方法がないことは、あの日烏との短いやり取りでよくわかっている。しかし、全てを話す権限が与えられていない自分が勝手をすることはできず、そうなると許可を求めるためのわずかの時間ではあっても、不本意な事態になりかねない。不本意な事態……武力で脅す、という。しかもその脅しに素直に従ってくれるようなお嬢さんとは思えない。脅しで聞かなければ実力行使ということにならざるを得ないが、それは避けたかった。
 後々までしこりを残す行いを、この少女に対してしたくない。
 自らのうかつさにため息が出そうだ。
 よりにもよって曹連幸の話を、外部でこぼすべきではなかったのに。
「それで、どうかしたの? 花散里さん」
 どう答えようか、一瞬だけ躊躇して、青鸞が嘘にならない程度に誤魔化した。
「身請けされるそうですよ。噂ですけどね」
 まだ噂だが、近いうちに実現する。連幸は城から、要塞に帰る。花散里の名が有名になりすぎたこと、連幸が直接城に赴いて指揮をとらなくても充分に城が拠点として機能し得るようになったことが主な理由である。六花が連幸の後任として、以後は花竜後宮の采配を振るうことになるだろう。
「李氏が、って話です」
 あくまでも小耳に挟んだだけの噂だという調子で、蜚廉が合わせた。
 そうなんだ、と黄麗は頷いて、軽く首を傾げた。仕種が少し斐竜に似ているな、と青鸞は思う。
 ああ、なるほど。たしかに似ている。それで日烏は手加減をしてしまったのだろう。
「ねえ、教えてあげたほうがいいと思う? 叔父さんに。それとも知らせないほうがいいのかな? 男の人なら、どっちが幸せかしら」
「たぶん、ご存知のはずです。昨日、わたしたちがお会いしたとき、非常に落胆されていましたから」
「へえ。それでよくこの仕事引き受ける気になったわね。李氏とかち合っちゃった、とかいって一日泣き寝入ってたこともあるのに。半べそだったわ、あの時は。その日はずっと仕事にならなくて……運び込まれてきた患者さん、翌日の昼過ぎまで放っておかれたのよ。まあ、放っておいてもいいようなおばかさんたちだったけど。喧嘩に光物を使った……なあに、二人とも。急にどうしたのよ」
 唐突に壊れたような笑い声を立てた二人に驚いて、黄麗はかがみ腰で行っていた作業を中断すると、立ち上がった。蜚廉が辛うじて笑いを治めることに成功し、ことばを紡ぐ。
「いえ。ふて腐れようにも、腐りきれなかったんでしょうね。だって花散里さんの紹介なんですから」
「なあるほどねえ。それで、昨夜はいそいそと出かけたんだ。なんか辻褄の合わないこと言ってたけど、それならよく分かるわ。挙句、身請けされることが決まったって知らされたんでしょ、きっと当人から。うわあ、かわいそ」
 可哀想と言いつつ、楽しそうに歌うような口調で言った黄麗は、端末のセッティングを終えて、椅子に座った。
「でも、それならそうと言ってくれればいいのに」
 そりゃ、文句は言うけど、反対したことなんてないのよ、わたし。
「ウソをつくなんて、ひどい」
 黄麗の呟きに、蜚廉は思う。
 いや、言いにくいでしょう。可愛い姪には。まさか、愛人に頼まれたから、とは。と。
 同様に青鸞も思う。
 大切な姪に、言える訳がないでしょう。下心があった、とは。と。
「蔡氏に、嘘をつくつもりがあったとは、思えませんし」
 ことばを捜しつつ蜚廉は言った。
「わたしたちと進んで関わりを持ちたがる人はいませんから、難色を示されたら、と思われたのではないでしょうか」
「だから、なおさらなの。言ってくれれば、もっとちゃんと準備ができたのに。叔父さんって、ほら、ああいう人でしょ? だから、考え付くおよその騒動に対応できるようにしておきたいのよ。それなのに……まだまだ、信用されてないんだわ、わたし」
 いつまでも子どもあつかいしてくれるし。
 黄麗は短いため息をつくと、両手でぴしゃんと自分の頬を打った。
「じゃあ、はじめましょ。明日中には終わらせないと。調査することが目的じゃないものね。手早く片付けなくちゃ」
「手早く、片付くんですか」
 言いながらやっと蜚廉は気付いた。黄麗の目は赤く、おそらくは寝不足であることに。
 きっと外出した叔父の、予定にない行動に、何か通常とは違うことを感じ取り、心配していたのだろう。
「お休みにならなくて、いいんですか? もしかして一睡もされてないんでしょう? 蔡氏はちゃんと寝てましたよ。移動中」
 問い掛けた蜚廉に、黄麗は少しだけ目を見張り、照れくさそうに笑うと、かぶりを振った。
「安心して眠りたいの。だから、さっさと片付けるのよ。何事も早期発見が一番大切だもの。先手取られちゃったら、ここが戦場になっちゃう。永眠するには、いくらなんでも、はやすぎるでしょ」
 言い切った黄麗は、二人の男を交互に見、確認する。
「わかった?」
「了解」
「是」
 それぞれに端末を見つめ仕事に精を出しながら、二人の男は奇しくも同じことを考えていた。
 黄麗の仕草は斐竜に少し似ているが、仕事に対する厳しさや全体の雰囲気は連幸や日烏により似ている、と。
 とろけるような微笑を浮かべたまま王虎を羽扇で張り飛ばした連幸や、口よりも手の早い日烏を思い出すと、自然、二人とも仕事に熱が入った。